数日前、その女性は、弱った足を少し引きずるように、わが家を訪ねて下さった。
27年前、兄弟4人でまとめた被爆体験記を携えて。
長崎の原爆にあったとき、小学校の4年生、9歳だったという。
三菱兵器の本館で被爆したお父さんは、苦しみながら1週間後に亡くなり、大火傷で全身が膨れ上がっていたお姉さんも、その1週間後に20歳の若さで亡くなった。
それからお母さんの故郷、福岡に転居し、戦後を生き抜いた家族の歴史が、70ページの文集に手書きで綴られていた。
被爆当時、長崎中学1年生だったお兄さんが福岡市の梅林中学校で教師をなさっていたとき、自らの家族の被爆体験を平和教育に役立てようと、生き残った姉、弟、妹に声をかけ、1992年に編集、300部印刷なさったという。
きのこ雲の下の原爆投下直後の様子は、あまりにむごたらしく悲惨。
この地獄絵のような状況下で、9歳の少女と13歳の兄がけなげに生きる姿に胸を打たれた。
家族のありふれた日常、極限の状況下でも人間らしく生きようとする姿。
貴重な貴重な、決して埋もれさせてはならない手書きの体験記だ。
昨日、電話すると、女性は穏やかな声で、すでに10人の兄弟姉妹の中で生きているのは私だけですとおっしゃった。
そしてあの日、
木の葉のように焼かれた無数の人々を、子ども達を忘れないで。
核戦争は絶対にしてはならないと言いたかったのだと思う。
そのためにこの手記を役立ててほしいと。
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